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坂口勝彦
当日パンフレットの冒頭にアントナン・アルトーの次の文章が引用されていた。 「踊ること、それは神話を受け入れること、したがって神話を現実に換えることである。」 これは、ロデーズの精神病院で書かれた手紙(1946年5月16日)の追伸として書いた文章で、邦訳の『ロデーズからの手紙』(宇野邦一・鈴木創士 訳)では次のように訳されている: 「踊ること、それは神話に耐えること、したがって現実で神話を置換することです。」 手紙を読んでみると、アルトーがここで「神話」と言っているのは、彼を精神病院に「強制収容」した妄想的な力、あるいは、ユダヤ人を強制収容した「ヒットラー主義」など、「我々を虐待する神話」のことらしいとわかる。そうであれば、当日パンフレットでの訳と微妙に意味合いがずれてくる気もする。つまり、象徴的な物語としての「神話」と、現実を非合理的に動かしてしまう作り話や妄想としての「神話」。遠いところにある物語としての神話と、見えないけれど身に迫る神話。この微妙で大きな差異を、ダミアン・ジャレによる『スリー・スペルズ』とシディ・ラルビ・シェルカウイの『Myth』との違いに感じた。 『スリー・スペルズ』つまり「三つの呪文」と題された作品は、それぞれ異なるときとところで制作された三つの作品をいわば三幅対(トリプティク)のように並べて構成した作品であり、どれもが神話と何らかの意味で関わっている。中心になるのは『アレコ』(2006年)で、その両側にひかえるのが『毛皮のヴィーナス』(2007年)と『ヴェナリ』(2008年)。『アレコ』はシディ・ラルビ・シェルカウイとダミアン・ジャレの共同振付で、シェルカウイの作品『Myth(神話)』(2007年)にその一部のシーンが使われている。他の二作はダミアン・ジャレの振付。これら三作をまとめてひとつながりの意味を持たせて上演する構想はダミアン・ジャレによるものらしい。これらがどのように「神話」と関わっているのか、そして、「現実」と「神話」はいかなる関係にあるのか。 最初の『毛皮のヴィーナス』は、もちろんウェヌスだ。ザッヘル・マゾッホの小説というよりは、ウォーホルが描いたバナナのジャケットのアルバムに含まれる同名の曲からインスパイアされたという。それならば神話とことさら言う必要はないのかもしれないが、手触りのよさそうな毛皮のコートにくるまれて、人間なのか動物なのか、もっと下等な(でも、より自在な)イソギンチャクかアメーバにも見える形でモゾモゾ動いているアレクサンドラ・ジルベールを見ていると、なにやらいまだ形にならない原初的なものがうごめいているようにも思えてくる。ウェヌスの誕生のシーンにも通じると言えるかもしれない。ウラヌスの切断されたペニスが海に放り込まれて泡立ち、そこからアプロディーテー=ウェヌスが生まれたという神話に……でも、それがなんだというのだ。たとえば、今ぼくたちがボッティチェリの『ウェヌスの誕生』を見ても、美しいとは思いこそすれ、ルネサンスのフィレンツェであのウェヌスの姿がアクチュアルに持っていたはずのスピリチュアルな感覚を共有することはできないだろう。女性性というものが普遍的にそなえている神話性に共感することはありうるかもしれないが、たとえそのようなものが存在したとして、触り心地のよさそうな毛皮のなかでいつまでも続く様々なアクロバティックな動きが、なぜそのようなものに接続するのかは謎のままだ。そもそも女性であるジルベールがなぜ女性性を表現する必要があるのか、何もせずともすべてが女性的なのではないのか、と少々ひねくれて言いたくもなるが、実は彼女は何も表現しているわけではない。イソギンチャクのように見えるときもあるが、イソギンチャクを表しているのではない。もしかしたらイソギンチャクを見た記憶が何か関わっているかもしれないけれど──それは振付のジャレの記憶なのかもしれないが──それでもイソギンチャクというわけではない。形をなすことを先送りにするかのように不定型であり続ける動きはめまいを誘う。もし、神話と関係づけるのならば、何かが生まれかけている生成状態を持続させているところにあるのかもしれない。神話は生まれをしるしづけるのだから。 続く『ヴェナリ』はダミアン・ジャレのソロ。『毛皮のヴィーナス』が柔性の荒々しさだとしたら、『ヴェナリ』の荒々しさは硬質だ。ジャレは、獣のようにうめき四つ足ではいまわる。アフター・トークによれば、人間のうちなる獣性の表現であるという。確かに彼は獣のように見える。動物のまねをしているようにも見える。表現とまねと何が違うのだろう、という素朴な疑問がちらりと頭をかすめる。表現であろうとまねであろうと、人間の獣性とでも言えるものが存在することはあらかじめ想定されているのだろうか。人間と獣を対比して、理性ではコントロールできない欲望や暴力性を、人間の中に残っている獣性と言うのかもしれない。ただし、そう言ってしまっては、いささか獣たちに失礼だろう。獣たちは自らの力を非理性的に行使することなどなく、つねに何らかの根拠のある「理性的」な理由を持って行動しているはずなのだから。理性というものを持った人間だけが非理性的になれるのであり、人間の中に獣性が残っているのではなく、人間が人間になったときに獣性という暴力的なものが人間の属性として生まれたのではないか。ならば、獣性は人間だけにあるものではないか。自らのものであるのに自らのものではない残滓ないしは外部のものとしてみられた獣性。ダミアン・ジャレはそれを身に引き受けようとして獣になろうとするのか。だが、ジャレは獣ではなくて人間だ。あたりまえだが、彼は獣にはなれない。強靱な身体でうなりながらのたうちまわるジャレのダンスに獣の荒々しさを重ねて見ることはできる。でも、そのときジャレの姿が少しずつ遠景に遠のいてしまう気もする。表現というもの、とりわけダンスにおいて何が表現されるのか、その困難さにジャレは触れているようだ。 『毛皮のヴィーナス』のイソギンチャクも、『ヴェナリ』の獣も、最後は人間の姿となって舞台にスッと立つ。いまだ人間にはなりえないものたちを葬るための儀式のように……いや、そういう物語を作り出すように彼らは振る舞う。それは何を意味しているのだろう。獣から人間に戻ったのか、あるいは、獣を抑圧する人間のグロテスクな姿を見せるのか……意味はどこにでも生まれてくる。 三番目にして三幅対の中央画となるのが『アレコ』。ダミアン・ジャレとアレクサンドラ・ジルベールのデュオ。ここで男と女はようやく出会うが、出会ったとたんに男は女を殺してしまう……背景にあるそういう物語よりもはるかに雄弁なのはふたりの動きだ。シャガールやプーシキンに由来するというロマン的な物語を語ろうとするにはあまりにも過剰な動き。ここまでの二作で、女性的なるものとか獣性なるものの表出に関わっていたかに見えるふたりのダンスは、そうした表現を置き去りにして先に進んでゆくようだ。 黒い毛の塊がまるで柔軟なウニのようにあばれまわる。その中心にはおそらくジルベールがいて、もちろん『毛皮のヴィーナス』と呼応しているのだろうが、動きはより自在になり、冗談のように無意味に戯れている。変形自在なススワタリ(『千と千尋の神隠し』など)といったところか。そこにジャレが近づくのだが、あまりにも柔軟な彼の運動は、ジルベールへの愛というよりはむしろ床との戯れに喜びを見出しているのではないかと思ってしまうほどに、運動それ自体の快楽へとシフトして行く。 長い髪の毛が切られてジルベールは動かなくなり、ジャレが彼女の衣服を口にくわえて振り回すことから始まるふたりのアクロバティックなダンスは、愛するものの喪失の悲しみを表していると見ることもできるかもしれないが、それ自体として驚くほど豊かな表情をたたえたダンスだ。ジャレの口が回転の中心のひとつとなることから、意想外な動きが生まれてくる。動きの可能性を手探りしつつ、動きのなかから新たな意味の形が紡がれて行く。おそらくそれは背景の物語とは関係ない。 この『アレコ』は、シディ・ラルビ・シェルカウイの『Myth』(2007年)にその一部が使われている。『Myth』は、図書館の一角を舞台として作り、どこかグロテスクでぎこちない人間たちと、しなやかに美しく踊る影たちとの関係を探る大作(2月にブリュッセルのKVS劇場で所見)。ダミアン・ジャレは黒い影たちの中心として、シェルカウイ同様の驚異的に柔軟な身体をもって舞台のあらゆるところをうごめきまわっていた。ジルベールも髪の毛のお化け姿で現れて、『アレコ』とほぼ同様のシーンが展開された。三幅対『スリー・スペルズ』の中央パネルとしての『アレコ』は、両翼の二作品それぞれが謎めいた象徴性をおびていたためか、あるいは、象徴的な関係性を寓話的に語ろうとしていたからか、何か大きな神話性ないしは彼方にあるはずの物語性を担わせられていたように見えたが、『Myth』のなかでの彼らふたりは、むしろ身近な日常的で猥雑でもある物語の一部になっていた。 最初に引用したアルトーの言葉のふたつの翻訳にかけて言ってみれば、ジャレによる『スリー・スペルズ』は「神話を現実に換え」ようとしていて、シェルカウイの『Myth』は「現実で神話を置換」しようとしていると言えようか。『スリー・スペルズ』は、神話や象徴を現実に表現したりなぞったりすることで神話を具現しようとする。一方『Myth』は、現実が神話と同等の象徴性を持っていることをダンスによってトレースしてその神話性を現実へと浮上させようとする。この微妙な違いを確認するためにも、シェルカウイの『Myth』を日本で見ることができたらいいのだが。 坂口勝彦 プロフィール 思想史。ダンス批評、演劇批評。『シアターアーツ』でときおり劇評を執筆。身体表現批評誌『Corpus』の第3号までの編集に携わる。 #
by tif08_review
| 2008-04-08 11:44
| 『スリー・スペルズ』
久保田洋一
この作品は三部作で構成されているが、どの作品からも一貫して、人間の中にある「動物性」を強く感じた。 『毛皮のヴィーナス』 幕開けから圧倒される。ステージ上で何やら奇妙な生命体がうごめいている。 端的に言えば、それは獣(・・・磯巾着のような優雅とも思える動きの中に、一瞬で獲物を捕らえる恐ろしさをあわせ持つ)。 その獣から美しいヴィーナスが登場する(その大きさからはとても人が中にいたとは思えない。欧米人にしては小型で、身体がとてつもなく柔らかいジルベールだからできる技)。獣に寄生されたヴィーナスとも見てとれるし、美しきヴィーナスの内面から獣が出てきたとも言える。 アンダーカバーのコレクション作品のために制作された作品というのが、興味深い(顔を覆い隠す黒いヴェールつきのドレスとモンゴル羊毛を使った白いコート)。 このドレスとコートが、見事に、ジルベールの美貌をさらに優美で洗練されたものとし、獣をより野性的なものに見せる演出をしている。 ラストで美しい女性が獣を捨て、高らかに笑って去っていくシーンは観ていて気持ちよい。爽快。 『ヴェナリ』 ギリシャ神話に登場する女神アルテミスによって鹿に変えられ(アルテミスが水浴しているのを見たためとされている)、自分の猟犬によって食い殺されてしまうアクタイオン。 古代ラスコーの壁画で描かれている鹿の頭を持った人物。 それらにインスピレイトされてできた作品である。 いずれもとても不思議な世界観である。 終始、ステージ上でジャレが人間ではない、動物的なしなやかな動きを見せる。 途中、ステージ上にある鹿の頭を自分のものにする。 脳が鹿で身体が人間か、脳が人間で身体が鹿か。 どちらにも見える。 ※同じく振付のジャレと同じベルギーのヤン・ファーブルの『Body,Body on the Wall...』(ビデオフィルム、1997年)で、ヴィム・ヴァンデケイビュスが「肉体の歓喜」というべき踊りをしている。 そこでは、「身体の喪失」を目に見えるものとして提示している。 身体が(自身の脳とは別の)自分の意思を持っているようであり、そのことが身体には不満のようである。 身体に別の意思がある、という視点から両作品を比べて観ると面白い。 『アレコ』 「アレコ」とは、『ジプシー』に出てくる、激しい情熱のあまり愛する者を殺してしまう青年の名からとっている。 ジルベールは腰下まである黒髪を結って登場する(『ジプシー』にならって、黒髪の女を「ゼムフィーラ」と呼ばせていただく)。 ゼムフィーラは、もはや目の前の男には興味なく、受け入れられない様子だ。 アレコは自分に感心をなくしてしまったゼムフィーラに対して、自分に気を引こうとする。あの手この手で。 そして、ついにその手で、ゼムフィーラの長い髪に手を出し、掴んで離そうとしない。 なかなか離さないアレコに対し、ゼムフィーラは、自ら刃物で自分の長い髪を切る。 ゼムフィーラが、自分から精神だけでなく、身体も離れてしまったことになかなか気がつかないアレコ。一方でゼムフィーラは、アレコから逃れ、自由を手に入れる代償に、死に至ってしまう。 この作品で象徴的に用いられている長い髪だが、髪の毛を身体の一部として、ここまで存在感を持たせて表現している作品を観たのは、はじめて。 まさに髪の毛は彼女の身体の一部で、彼女の血であり、生命だったのか。 原作では、アレコはゼムフィーラの新しい男に単刀を突き刺し、彼女までをも刺してしまう。 本作では、ゼムフィーラが自ら刃物でアレコとの関係を絶つが、アレコが愛するものを死に追いやったことは同じである。 アレコは、しばらくして、愛するものが「普通ではない」ことに気づく。 愛する者の死に直面した時にみせる行動。 舞台上では動物的に表現されていた。 アレコがゼムフィーラがまとう服のあらゆる所を口でくわえ、あらゆる方向に引っ張っていく。 バレエに似た流れるような二人の動きは、伸縮性に富み機能的な衣装だからこそ実現したもので、細部まで造りこまれているように見えた。 その行動は、まるで、猫が産まれた直後の我が子の死を受け入れられず、口に加えたまま離そうとしない、その習性(本能なのか)のようだ。 とても切ない。 自分の愛する者の「死」に直面した時、私たちはどうするだろうか。 私たちもそんなに変わらないのではないか。 人間であり、動物なのだから。 最後に、『動物たちと、その人間たち』とは、フランスの詩人ポール・エリュアールの一冊の詩集の題名である。 (同じくフランスの)思想家ジョルジ・バタイユが、ラスコーの洞窟の壁画の謎を解く鍵として、フランスの大詩人が遺したこの詩の言葉(題名)をあげている。 『動物たちと、その人間たち』・・・これは、きっと本作を解く鍵としても、重要であるに違いない。 [参照] アポロドーロス著、高津春繁訳『ギリシア神話』 岩波書店、1953年 ジョルジュ・バタイユ著、出口裕弘訳『ラスコーの壁画』 二見書房、1975年 プーシキン作、蔵原惟人訳『ジプシー・青銅の騎手 他二篇』 岩波書店、1951年 久保田洋一 会社員、29歳 高崎経済大学経済学部在学中、野田秀樹作・演出『カノン』を観たことがきっかけで、観劇が趣味になる。 それまでは舞台関係とは無縁だったが、それ依頼、月に一本ペースで観劇する。 その後、某銀行へ入社、2年前に不動産投資会社に勤務。現在に至る。 (仕事は舞台全般と全く関係ない。あくまで趣味。) 昨年、ヤン・ファーブル、ヤン・ロワース、アラン・プラテル・バレエ団の作品に触れ、ベルギーの演出家やコンテンポラリーダンスに興味を持つ。 最近は、演劇に限らず、バレエ、ダンス、オペラ、ミュージカルなどジャンルにこだわらずに観ている。 #
by tif08_review
| 2008-03-31 17:10
田中拓也
私は、3月22日の19:00からの『スリー・スペルズ』と題された、『毛皮のヴィーナス』、『ヴェナリ』、『アレコ』を観劇し、その後に行われたアフター・トークに参加した。 この文章は、『ヴェナリ』において、舞台の音楽を担当した、クリスチャン・フェネスが演出した空間について、私が体験した、経験したことを文章にしたものである。 まずは、『ヴェナリ』というものがどういうものだったのか、私の記憶を文章にして辿ってみることにする。 舞台が始まった。会場が真っ暗になった。私は舞台の中へと引き込まれた。 舞台の三作品は、途切れることなく連続して行われた。それぞれの作品が始まる前に、その舞台の題名が、舞台の背後のスクリーンに映し出された。 『毛皮のヴィーナス』が終わり、その余韻が残るまま『ヴェナリ』が始まった。暗い会場の中で薄い光がぼんやりと舞台を照らしていた。真ん中に鹿の角らしきを形どった冠のようなものが置かれていた。若い男(ダミアン・ジャレ)とその冠の影が、スクリーンに映し出され、立体的な空間を作り出していた。若い男はその冠に近づき、その冠に吸い寄せられるように捕らえられ、若い男と冠は一体となった。 舞台がいったん暗くなった。舞台が明るくなった時、若い男と冠は少し距離を隔てて対峙していた。そして若い男は長い棒をあらゆる方向へと、時には会場のほうを向けて、振りまわしていた。 前半(舞台がはっきり前半と後半に分かれていたわけではない。しかし舞台が暗くなる前までを前半、それから後を後半と呼ぶことにする)は、フェネス氏が作曲したと思われる音楽が舞台を演出していた。しかし後半は、フランツ・シューベルトのピアノ独奏曲、『即興曲op90-3』がそのまま用いられていた。 プログラム・ノートにもあるよう、フェネス氏は電子音楽の作曲家である。フェネス氏のこれまでの業績はプログラム・ノートにも書かれてあるのでここで再び書くことはしない。だが、三作品を通して、ほとんどにおいて(一部分どの作品だったか定かではないが、電子音ではなく実音で、ファンファーレのようなものが流れたが、それを除いて)電子音が使われていた。しかし、後半は、すでにある、また他人の音楽が使われていたのである。 これは偶然かも知れないのだが、実際にこの音楽がかかる前の前半に、私の頭の中に、同じ曲が鳴っていたのだ。実際に音楽が流れた時、私はびっくりした。私はある絵を見ている時や、ある経験をしたときに特定の曲が頭の中に浮かぶことが時々あるのだが、今回、その頭の中に浮かんだ音楽と、実際に流れた音楽が一致したのである。 そこで私はある疑問が生まれた。 フェネス氏はなぜこの曲を使ったのか。頭の中の音楽と実際にもたらされた音楽が一致したという経験は私だけのものだったのだろうか。 ここで私は、そのシューベルトが作曲した『即興曲 op90-3』という曲の内容について記述してみたい。 この曲は1827年、シューベルトが晩年に書いたものである。フラットが6つの変ト長調である。旋律の身振りとしては、四声のコラールをベースに、アルトにあたる部分が、器楽的な、無窮運動的な音の連なりを表している。 三部形式であり、愛と希望に満ちた主題部から、悲しさや、怒りをも思わせる中間部と続き、そして主題に帰る。 実際には、舞台が一度暗くなり、そして明るくなったところで音楽が鳴り始め、主題に帰ったところで舞台が暗くなり、音楽がフェード・アウトした。曲としては、冒頭から鳴り始め、再び主題に帰ったところで、舞台が暗くなった。 私の経験する現在が、過去を想起させたというのか。私の頭の中で鳴っている音楽が与えるイメージが、舞台が与えたイメージと一致したのか。 私が舞台から与えられたイメージは、 愛、人間、動物、苦しみ、解放 …であり、音楽から与えられたイメージは、愛、祈り、哀しみ、苦しみ、怒り…である。 その2つが、音楽が鳴った瞬間に一致し、私の頭のなかで、過去(前半の部分)を想起させ、déjà vu 体験を引き起こしたのだろうか。 前半(私自身が文章を書く上の勝手な都合で分けただけの前半)の部分で用いられた電子音楽はどのようなものだったのか。舞台から2日後たった今、それを明確に思い出すことは難しい。しかしながら、当日行われた三作品を通して、舞台を十分に演出しきっていたことだけは憶えている。 アフター・トークにおいても彼は一言も発しなかった。音楽家は音楽によって全てを表現するのだという彼なりのポリシーだったのだろう。 〔追記〕 シューベルトの『即興曲op90-3』は、現在まで多くのピアニストが録音しているが、私には忘れることのできないレコードがある。それは33歳で世を去った大ピアニスト、ディヌ・リパッティによるもので、『ブザンソン音楽祭における告別コンサート』(リパッティの芸術6、東芝EMI 現在ではCD化もされている)と題された、リパッティが死の数ヶ月前に録音したライヴ録音である。私にはシューベルトの白鳥の歌が、リパッティのそれと重なり、最高の形で音楽として具現化されたものに聴こえる。これを読まれた方も是非聴いてほしい。 田中拓也 早稲田大学法学部卒。大学内において、演劇批評家でロシア文学者の、鴻英良氏のゼミ(一般参加可)を受講 #
by tif08_review
| 2008-03-31 17:06
| 『スリー・スペルズ』
中尾祐子
『スリー・スペルズ』には、最初から最後まで魅せられた。まっさらな舞台で孤高に舞うダンサー、しなやかに宙に映える肢体、気高く精鋭された技芸、脳に深く染みこむ音楽、これらの才気に目を奪われっぱなしだった。どの議論を差し置いても、まずその感動を述べておきたくなるほどに素晴らしい一夜を過ごせた。 さて。私が『スリー・スペルズ』を観て痛感した事実は、以下の通りである。「人はケモノである。もしくは、かつてケモノから分離した。あるいは、いまだ未分化の状態であるにもかかわらず、それを隠している。」人間が奢り高って忘れがちになる原点を二者の演技、三つの演目を通じて教えられた。人の体内にはケモノが眠っている。 第一話『毛皮のヴィーナス』。女は毛皮と絡み合い、戦い、最後には振り払う。その毛皮、すなわち何らかの動物性とは、もともと己の一部を形づくっていたケモノ性なのか、はたまた外部から挑みかかる敵なのか、空想は膨らむ。やがて女は一息ついて二本足で直立し、歌う。そのメロディは勝利をうたうものか、それとも哀しみか。 第二話『VENARI』にもまた、ケモノと人との間を揺れ動く男が登場する。「猛々しい角」を被ることへの戸惑い、怯え。そして、被った後の傲慢、昂揚、震え。「角を被る」とは、ケモノになることなのか、それとも人になることなのか。一旦消された照明が再び照らされた時、男が人の顔をしていたとしても、解答が提示された気にはなれない。男は武器を手にして、「角」に狙いを定めているとすれば・・・。語りの無い身体表現は、奥深く思案の余地を心に残す。 毛皮や角を脱ぐ・被るという行為に、ケモノと人との未分化を匂わす妙があると言えるのだが、二演目とも、二本足で立つ・立てないという衝動も演じられていた。その表現がことさら示唆に富んでいる。また、そこに託された想いは舞台上に痛切にも響く。このようにして、『スリー・スペルズ』は心地よい瞑想の淵へと我々を誘う。 死体と踊るアレコの物語が展開される第三話『アレコ』もまた、人とケモノとの狭間を考えさせる。他の生物における死をどう捉えるか、その思想は人とケモノとを分かつ基準の一つとなるからだ。アレコは死を理解できぬ原生の生物のように、死体に噛みついてしがみ付いて、死体を生かそうと狂おしく踊る。その姿に純真さを感じつつも、同時に畏れさえも覚える。私にとっては、解ろうとしないアレコに対して歯痒さ、憤りも生れる。それは一体なぜだろうか。興のそそる自問である。 以上のように、『スリー・スペルズ』は言語を介さないダンスゆえに、観る者へ黙考する幅を広げる。だが、それも結局は次の一言に落ち着く。 人間の内部にあるケモノ性の目覚め、それは不気味かつ優美である、と。 中尾祐子(なかお ゆうこ) 1981年、千葉県生まれ。 2006年3月、立教大学大学院 文学研究科地理学専攻を修了。 2006年4月から、六本木にある森美術館にて現場アテンダントとして勤務。 2007年の「東京国際芸術祭」では、ボランティアスタッフとして制作に参加。 #
by tif08_review
| 2008-03-31 16:56
| 『スリー・スペルズ』
坂口勝彦
夜の鉄道駅の魅力は、闇の中に消えて行く線路がぼくたちをどこか遠くへの旅へといざなうからなのかもしれない。デルヴォーの絵の少女たちも線路の果てを見つめていた。『ムネモパーク』は、煌々と輝く明かりに駅のシルエットが浮かぶ夜の鉄道から始まった。舞台には精巧な鉄道模型が置かれている……というよりは、模型の展示会場のよう。そのような趣味を持つ人たちが日本にもそしてヨーロッパにもいることは知っている。小学生の頃、プラモデルとは少し違った鉄道模型を集めている友だちをうらやましく思ったこともある。この『ムネモパーク』の主役は、四人の鉄道模型ファン。しかも、既にリタイアした老齢の方々。鉄道模型は子供の遊びなどではなくておとなの優雅な趣味なのだろうか。とはいえどこか子供っぽいところが残る趣味だ。舞台にはミニチュアのレールがぐるりと敷かれて、駅や山や家や橋や牧場など線路のまわりにあるものたちも精巧に再現されている。もしかしたらかれらは主役は自分たちではなくて鉄道模型のほうだと言うかもしれない。小型カメラが取り付けられたミニチュアの列車が走り出すと、列車から見た映像が舞台正面のスクリーンに映し出される。薄闇の中、線路脇の木々や駅が通り過ぎる少しばかりノスタルジックな雰囲気は、突然画面に現れる老人のしわの刻まれた巨大な顔で滑稽に中断される。老人たちはレールの横に頭をつけて寝ていたのだ。幸福な時間、至福の時。かれらは鉄道模型と一緒にいれば幸せなのだろうか。そんなかれらをシュテファン・ケーギが演劇という喧騒の場に引きずり出した。そして旅の果ての遠くの方からやって来たのは、それほどノスタルジックとはいえない騒々しいインド映画だった。 世界の縮図、人生の縮図、という、かつて演劇がそうであったと語られたであろうが忘れかけていた言葉を、『ムネモパーク』は思いがけず思い出させてくれた。鉄道模型というそれ自体が縮図であるものが眼前に存在している舞台で、空間的・時間的な遠近法をあやつりながら、あるいは混乱させながら、スイスや日本の牧畜事情、インドの政治情勢、老人たちの人生とも重なる20世紀の歴史などが語られて行く。空間的にも時間的にも遙かなところにある物事が、スイスという得意な場所のこれまた鉄道模型という特殊な装置においてこそ、自在に共存することができたのだろうか。とはいえ、「縮図」という言い方は少々横柄かもしれない。というのも、そこに生きている人の空間と時間を勝手に縮めて俯瞰してわかったつもりになるのだから。グローバリゼーションと言われる事態も、空間的遠近法の攪乱を身勝手に称揚しているだけなのかもしれない。そのような勝手な超越性をあらかじめ排除するために、四人の老人たちが演劇という場に登場してくれたのだと思う。鉄道模型のかたわらにいるかれらの年老いた生身の身体そのものは、縮図へと縮めたり要約されることをこばむ防波堤になっているのだ。 出演者はもうひとり──出演者と言うのがためらわれるほど自然にかれらはそこにいるのだが──四人の老人たちを統率する若い女優のラヘル。彼女は、中央の場所から老人たちにその都度指示を与えつつ、自分の人生を英語で語りもする。「私はバンヴィールという小さな村の農場で育ちました……。」そのために幼い頃から色々なことを教えられたという。たとえば、牛のお産のあとに子宮に死んだ仔が残っていないかを調べる方法。手をグッと前に突き出し、クルッと回転させて引き戻す。生々しくもあり滑稽でもあるその仕草。スイスののどかな田舎を走る鉄道模型だと思っていると、いきなり現実が突きつけられて、ザラリとした感触が残される。 さらに舞台上にはゲストがいる。スイスにはその人口と同じほどの鶏がいるらしい。そして日本では毎年何百万匹もの鶏が殺されているという。ゲストは殺されなかった一羽の鶏。インド産の鶏なので名前はインポート。牧畜事情の話がいつのまにかインドに接続し、どうやらかれらは、舞台上のミニチュア模型を使ってインドのボリウッド映画を撮影しようとしているらしい。なぜインド映画なのだろうと、少しとまどいながらも見ていると、列車が到着する駅で次々と撮影がおこなわれて行く。アメリカとイランの関係、パキスタンのパイプライン問題などが映画のストーリーの背景にあるらしく、小さな駅ではテロまで起きる。夢のようなスイスの町にインドの政治的現実が入り込んでくる。実はボリウッド映画とスイスとの関係は思いのほか深いらしい。インドの映画のなかの幸せなふたりは「地上の楽園」と呼ばれた美しいカシミール地方に旅発つものだったのに、印パ両国のカシミール領有問題の緊張が激化してから撮影が困難になり、代わりにスイスの高原でロケされることが多くなったというのだ。そのため、スイスには毎年何千ものインドのカップルがハネムーンで訪れるようになった……そのようにラヘルが語ると、本物のボリウッド映画がスクリーンに映し出され、老人たちも混じってスイスの高原で楽しく踊り出す。きな臭い政治的・宗教的問題が背景にありながらもあっけらかんと踊り抜けてしまう力に驚きながらも、きっとこれは良いことなのだろうと思う。 とはいえ、インド映画で楽しく踊ったあと、その余韻も消えないうちにすぐさま小さな傷口を突きつけられた。ポーランドのアーティスト、ズビグニエフ・リベラがレゴで強制収容所を作ったときレゴはそれを阻止しようとした、という話から、鉄道模型のカタログにないものもある、たとえば鉄道自殺しようとしているひと、そしてネオナチ……そういう見えないほころび、あるいは見ようとしない微細な傷口をシュテファン・ケーギはそっと開いてみせる。そこに、意地の悪いいたずらではなくて、誠実さを感じる。 こういうふうに、『ムネモパーク』では思いのほかスピーディーにことが展開する。老人たちがのんびりと鉄道模型で遊んでいる姿にだまされてはいけない。かれらは実にてきぱきとカメラを操作し、列車を動かし、ケーブルを運ぶ。ラヘルが語る政治的な農業問題もゆっくりと咀嚼して考える時間は与えられないまま列車は次の駅に到着し、また出発する。宣伝コピーには「脱力系」と書かれているが、それは少々勘違いかもしれない。緻密に展開する微細な物語と老人たちの情熱はこの舞台を世界の縮図としてざわめきに満ちたものとしているのだから。 もちろん老人たちは、自分の出番や裏方作業以外のときは、おそらくはいつもの日常と同じようにミニチュアの制作にかかりきりだ。小さなフィギュアに色づけしたり、線路脇の木々を身近な材料で作ったり、そんな作業工程の楽しさをめいめいが語ってくれる。スクリーンに映されるミニチュアの映像の中に入り込んで案内してくれたりもして、とても楽しい。油断していると、「墓地と盲人施設はいつも眺めのいい場所に作られる」というようなハッとさせられる指摘を随所で語るから気が抜けないのだが。 フラッシュバックと呼ばれる時間遡行のようなものが三回行われ、そのときばかりはかれらは演技らしい演技をする。フラッシュバックの権利を得るために嬉々としてゲームをして、勝って喜んでスキップする姿を見ているだけでもうれしくなる。勝者はどうやら過去に戻ることができるらしい。それもどうやら鉄道模型がリアルな過去の世界となって、そのなかに数十秒間だけ入り込めるようなのだ。鉄道模型はかれら自身の過去の思い出がたっぷりと詰まった場所なのだろう。かれらは喜びの演技を演じているのではなくて、もしかしたら、擬似的にでも模型の世界に入ることは本当にかれらが望んでいたことなのかもしれない。これはシュテファン・ケーギが仕掛けたとても巧妙な仕掛けなのだろう。もちろん、ここでも過去の思い出に安らぐかれらが見られるわけではない。たとえば、ハイジばあさんはまだ東ドイツであった頃のライプチッヒに戻り、西側への脱出を試みる。そうして線路を走る不安げな彼女が西側に入ったときの喜びの笑顔にはグッとくるものがあった。巨大な政治的状況がひとりの人間の思い出に刻み込まれているさまをさらりと引き出して見せてしまう、そのあざやかな仕掛けには驚いてしまう。 カシミールとスイスが意想外に接触し、インド映画はスイスに侵入する。あるいはまた、インドネシアのクラカトア火山の噴火が原因でアルプスの山々が赤く染められたという事実などを想起しながら、スイスの鉄道模型のなかに遙か彼方の出来事が記憶のカプセルに詰めたようにそっと置かれて行く。困難な状況にあるらしいスイスの牧畜事情も、どこか遠くの思い出のように、駅と駅の間に置かれて行く。世界の縮図。少し生きづらいけれど、それでも何とか生きて行かなくてはならないし、大丈夫、生きて行かれるよ、と、じいさんばあさんは踊っているようだ。そして、人生の縮図。83歳のマックスじいさんはフラッシュバックでつまずいて、まだ過去になっていない真っ白な未来に落ちてしまう。未来は今よりも生きづらくなるかもしれないけれど、大丈夫、生きて行かれるよ、と言うかのようにマックスじいさんは駆け足で未来を駆け抜けて行った。 気づかれずに既にそこにあり生きられている現実の様々な襞を、シュテファン・ケーギはていねいにひろいあげて、ミニチュアの世界の点景として配備し、これが世界でこれが人生だという縮図を見せてくれる。ドラマのような物語がどこにも現れないとしても、演劇の力はここにあるはずだ。手垢にまみれてしまったかと思われた、人生の縮図、世界の縮図、という言葉がこれほどにも鮮やかに息を吹き返す場にいられたのはとても幸福だった。しかも最後は理由もわけもわからずインド映画の至福のダンスシーンが強引に始まる。とりあえずインド映画の楽しい踊りにまぎれて終わるとしよう、どうしたらいいのかは踊ったあとに考えよう。まずは踊ろう。 坂口勝彦 プロフィール 思想史。ダンス批評、演劇批評。『シアターアーツ』でときおり劇評を執筆。身体表現批評誌『Corpus』の第3号までの編集に携わる。 #
by tif08_review
| 2008-03-31 11:18
| 『ムネモパーク』
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